洟をたらした神

洟をたらした神

咲き誇るセイタカアワダチソウの花園で、
さまざまな種類の蜂たちが共に戯れている。

国見の丘には、故ネルー首相(印国)から贈られた
釋迦(गौतम सिद्धार्थ)舎利収蔵の仏舎利塔が聳える。

その傍らに掲げられた掲示板に、文明とは
戦争しないことである」と記されている。

現世を生きる衆生が悪魔に憑依されたかの如き
戦争と全体主義という狂気から遁れるために、

平和な世界の実現を願った強く切実な思いが、
その言葉の中から泉のように溢れ出ている。

殺人を合法化してしまう戦争という狂気蔓延
その疫病(業病)を治せるのは人類の叡智のみだろう。

九月を挟む50日程の時間をかけ、各若連が
自らの手で創り上げた山車同士をぶつけ合う。
「平和的とは言い難い」と眉を顰める人もいるだろう。

喜寿を迎える頃から開花し始めた創作意欲が、
吉野せいさんの『洟をたらした神』に結実し、
戦時下のリアルな世界を描き出した。

戦争という狂気の世界は独裁者の異常さのみでなく、
市井の人々の内なるマグマの噴出物であることを、
吉野さんは丁寧に、やさしく語りかけている。

激闘の末、「角」を折った愛(山)車を気遣う若連の内に、
戦争に向かう「狂気」など微塵も感じられない。

逆に、彼らからは幼い我が子に降り懸る災厄を
秡い除けようとする強い意志が伝わってくる。

やはり、「あばれ山車」は災厄秡除の祭礼なのだ!
針道の「あばれ山車」とは人間の内に潜むマグマを

ものの見事に表出して見せる平和運動であり、
勇者たちの晴れやかな顔がそれを物語っている。